中岡慎太郎は天保9年(1838年)4月、高知県安芸郡北川村柏木(北川郷柏木村)の中岡小伝次の長男として生まれた。幼名は福太郎。
慎太郎の父・小伝次は高知県東部第一の人物として知られる大庄屋であり、それまで男児に恵まれていなかった中岡家にとって待望の長男であった。それだけに慎太郎の教育には特に熱心になされたいう。
3歳の時、名を光次(こうじ)と改め、父から読み書きの指導を受けはじめ、4歳になると生家付近にある松林寺の住職・禅定和尚に読書を学び、7歳になると鳥ケ森を越して片道1時間半近くの山道を歩き、漢方医・志摩村策吾の塾に入塾して「四書」を学んだ(「四書」とは儒教経典の一つで「論語」「大学」「中庸」「孟子」の4つをまとめた呼び方)。
慎太郎が14歳の時に、母が病で亡くなったものの、その年にして島村塾で代理で講師として講義をするほど立派に成長していた。また、後に書道の達人となる慎太郎は、このころに安田の乗光寺というところで書も学んでいる。
その翌年には、土佐文武の先覚者と言われ名を成していた間崎滄浪(哲馬)に自ら願い出て師事。詩書(中国の詩経と書経)を学ぶなど熱心に勉学を行っている。
幼少時の慎太郎のエピソードでこんなものがある。
ある夏のこと、数名の友人と柏木の巻の渕というところへ泳ぎに行った時のこと。底が見えない渕は青々として、そのうえ常に大きな渦が巻いているので人々からその渕には入ってはいけないと言われている場所だった。ところが慎太郎は林を通って20メートル近くある断崖の上へ現れたかと思うと、身を躍らせて頭から飛び込み、何事もなかったかのように浮上してきた。それを見た大人たちは慎太郎の肝の太さに感嘆し、豪胆な少年として噂しあったという。
まさに文武両道の英才として、幼少期からその片鱗を見せていた。
中岡慎太郎が幼少時に通ったという松林寺跡。 |
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