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五十人組結成、禁門の変





中岡慎太郎生誕160年を記念して、全国からの募金により建立されたという銅像。
中岡慎太郎生誕160年を記念して、建立された中岡慎太郎像。

中岡慎太郎像の横にある賛辞文。
中岡慎太郎像の横にある中岡慎太郎賛辞文。

京都で起きた「禁門の変」を戦った中岡慎太郎。画像は京都の街並み。
京都で起きた「禁門の変」を戦った中岡慎太郎。画像は京都の街並み。
文久元年(1861)8月、武市瑞山が結成した土佐勤王党の血盟文に17番目に署名。志士としての活動をスタートさせる。中岡慎太郎、時に24歳。

翌年10月、五十人組結成に参加(五十人組とは、勅使・三条実美が江戸へ下る際、土佐藩主・山内豊範がこれを護衛することになり、豊範の江戸参勤に随行できなかった土佐勤王党の同志たちが島村寿之助らの資金援助をえて結成された警護部隊のこと)。

11月には前藩主・山内容堂の守衛の藩命を受けて江戸に行き、長州の俊英・久坂玄瑞と水戸で交わり、さらに信州松代の佐久間象山も訪問している。

慎太郎は「松下村塾の双璧」と言われ、高杉晋作とともに松下村塾を代表する門下生であった久坂玄瑞と交わる中で、松下村塾の主宰者・吉田松陰を深く尊敬するようになる。吉田松陰は安政の大獄により斬首されており、すでにこの世にいなかったが、慎太郎は吉田松陰を亡き師として終生尊敬し、松陰の教えを行動の指針としていくようになる。

中岡慎太郎は、いわゆる松下村塾の門下生にはあたらないが、精神的な「松陰門下」と言うことができるかもしれない。

文久3年(1863年)七月、板垣退助と会合し意気投合(板垣退助とは薩土盟約締結の際、行動を共にすることとなる)。

同年、京都で「八月十八日の政変」が起こり、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、土佐藩を脱藩。長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となっていく。また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣となり、長州をはじめ各地の志士たちとの重要な連絡役ともなる。

この間、招賢閣会議員にもなっており(招賢閣とは、三条実美をはじめ七卿が都落ちをして来た時の宿所であり、脱藩の志士達の議論の場となった場所)、尊攘派浪士たちの指導的役割を担う志士として、本格的な活動を行っていった。

元治元年(1864年)、上京して長州藩邸に入り、高杉晋作、久坂玄瑞らとともに活動。儒者・中沼葵園の塾に入門し、中村半次郎(後の桐野利明)など薩摩の尊攘派志士たちとも交わっている。その後、高杉晋作らと薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、長州・三田尻へ戻る。

同年6月に再び上京。前年の「八月十八日の政変」で京都政界を追放された状況を挽回しようと、暴発する形でついに京へ武力行使に至ることになってしまった長州藩の戦いに加わる。いわゆる「禁門の変」である。

慎太郎は、郷里の家族に遺書を認め遊撃隊に加わり、激闘。足を負傷し退く。8月には、四国連合艦隊の「下関」攻撃に対し、忠勇隊としても出陣。後に忠勇隊隊長にも任命されている。

この頃より、長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させていくこととなる。


そして、誰よりも早く雄藩である薩摩と長州の協力関係の必要性を語り、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始めた。




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