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薩長同盟、薩土盟約成立


贈正四位・中岡慎太郎顕彰碑(高知県北川村)
贈正四位・中岡慎太郎顕彰碑(高知県北川村)
1930年の除幕式には、慎太郎の死後、
陸援隊隊長となった田中光顕も出席したという。




坂本龍馬と中岡慎太郎。そのどちらが欠けても薩長同盟はならなかったはずだ。
坂本龍馬と中岡慎太郎。そのどちらが欠けても薩長同盟はならなかったはずだ。
知名度と反して、歴史家の間では幕末維新の功績は龍馬以上との声も根強い。



中岡慎太郎館近くに立てられた「陸援隊隊長 中岡慎太郎」ののぼり旗。
中岡慎太郎館近くに立てられた「陸援隊隊長 中岡慎太郎」のぼり旗。
単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させていくことの必要性を痛切に感じ、誰よりも早く、雄藩である薩摩と長州の協力関係の必要性を語り、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を第一の悲願として活動し始めた中岡慎太郎。

中岡の志士としての活動の真骨頂がここから始まる。

元治元年(1864年)11月、筑前の早川養敬が馬関に来たのを機に、薩長同盟の急務を説く。同年12月、幕府の長州征伐について小倉で薩摩の西郷隆盛と会談(実質的な薩長連合の画策の始まりと言える)。さらに馬関で西郷と高杉晋作の会見を実現させる。その後も、長州藩、薩摩藩、両藩のビッグネーム、有志を中心に薩長和解の遊説を精力的に行っていく。

慶応元年(1865年)1月、長府で高杉晋作と山縣狂介(後の山縣有朋)と会談。2月には長州藩有志に対し薩長和解の説得を行い、京の薩摩藩邸にも出入り。4月には下関にて村田蔵六(後の大村益次郎)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)と面談。同月に長州藩尊攘派のリーダーと言える桂小五郎(後の木戸孝允)と面会し、薩長同盟について打診している。

同年5月、薩摩(鹿児島)に入り西郷隆盛に上京の途中で長州への立ち寄りを説き、西郷隆盛とともに薩摩を出港。しかし、途上で「急用あり。大坂へ急げ」との藩命を受け西郷は約束を果たさずに大坂へ向かってしまう。慎太郎は失意のうちに単身下関に帰着。それでも慎太郎はあきらめない。

6月、坂本龍馬と共に京都の薩摩藩邸に滞在して薩長和解の策を練る。7月、田中顕助上京。慎太郎の説に大いに賛同し、田中顕助と京都より長州へ出発。さらに薩長両藩和解の利害を諸隊に説く。8月、薩長和解問題解決のため、単身上京。その後も京、長州、太宰府などを活動のために往復している。

11月、「時勢論」を記す。「自今以後、天下を興さん者は必ず薩長両藩なる可し、吾思ふに、天下近日の内に二藩の令に従ふこと鏡にかけて見るが如し、他日本体を立て外夷の軽侮を絶つも、亦此の二藩に基づくなる可し」(「これから天下は薩摩、長州の二藩の命に従うようになる」との見解、「薩摩、長州ともに外国と戦い、敗れたことで民族の独立を意識するようになった」と述べている。また「富国強兵と云ふものは、戦の一字にあり」とも書いている)。

翌年の慶応2年(1866年)1月、中岡、龍馬らの尽力により、京の薩摩屋敷にて悲願であった長州の桂小五郎、薩摩の西郷隆盛、小松帯刀の会談が実現。しかし、両藩の面子から双方が薩長同盟の話を切り出さず、一時は破談になりかけた。しかし、同席した坂本龍馬が「窮地にある長州から同盟を申し出ることはできないはずだ。今は藩の面子を気にしている時ではない」旨を西郷に説き、薩摩が申し出る形で決着。最後のひと押しを龍馬が行ったことで、中岡の悲願であった薩長同盟(薩長盟約)は合意に至った。

歴史的転換点・薩長同盟が成った後も、中岡は行動を止めない。

その後も同様に奔走し、土佐藩と薩摩藩を結びつけるべく板垣退助に西郷隆盛を紹介し会談させ、倒幕のための薩土密約を実現。更に土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、慶応3年(1867年)6月、京において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の後藤象二郎・乾退助・福岡孝弟らとの間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約を正式に締結させた。

7月、長州の奇兵隊を参考に「陸援隊」を本格的に組織し始め、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。この頃、討幕と大攘夷を説いた「時勢論」を再び著している。

「西洋各国の国勢を見れば、軍備政教を一新して国体を立ててきた。いまだ周旋と議論とに終始して国を興したことは聞かない」「邑ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財を投げ捨て、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸あるものはその技芸を尽し、愚なる者は具を尽し、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽し、しかるのち政教たつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり」と述べ、後藤象二郎や坂本龍馬の大政奉還論を論難。また薩摩や長州が英国と戦った様子を述べ、国難に際しては、階級に関係なく、民衆が一体となることで藩論が一変したことを説いている。



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