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中岡慎太郎の最期(近江屋)

京都・霊山護国神社内に眠る坂本龍馬と中岡慎太郎。
京都・霊山護国神社内に眠る坂本龍馬と中岡慎太郎。
全国からファンが訪れている。

坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓。
坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓。

京都・霊山護国神社にある中岡と龍馬の銅像。
刺客の凶刀に斃れた坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)。
画像は京都・霊山護国神社にある銅像。


霊山には龍馬と中岡だけでなく多数の志士達の墓がある。
霊山には龍馬と中岡だけでなく多数の志士達が眠る。

中岡慎太郎遺髪墓(右)と中岡の妻・兼の墓(左)
中岡慎太郎遺髪墓(右)と中岡の妻・兼の墓(左)


慶応3年(1867年)7月、薩長同盟、薩度盟約締結後も精力的に活動していた中岡慎太郎は、京都白川村の土佐藩邸内に陸援隊を組織し、自ら隊長となり倒幕挙兵への準備を怠らない。そして、大政奉還を策する佐幕公武合体派に対抗して武力倒幕、王政復古のために岩倉具視や西郷隆盛などと会い、画策を続けた。

そして、運命の同年11月15日(西暦1867年12月10日)寒い冬の日のこと。

中岡慎太郎は、三条制札事件で町奉行所に囚われていた土佐藩士の宮川助五郎が釈放されると聞き、その身柄の引き取りについて谷守部の下宿先であった大森方を訪ねた。しかし、谷が不在だったため、夕刻に近くの龍馬の仮寓である近江屋を訪れ話し合いを行っていた。

その日、龍馬は風邪気味で母屋の二階奥の八畳間で北側の床の間を背にして座っており、火鉢をはさみ南面して中岡と対座し、話をしていたという。部屋を隔てた表の間では、龍馬の従僕で元力士の山田藤吉が楊枝をけずっていた。

夜9時頃になり、客(刺客)が近江屋を訪れ「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と告げた。十津川郷士には龍馬の知人も多いので藤吉は不審に思うことなく、見知った客か龍馬に確認しようと二階へ上ろうとした。踵を返した藤吉を見て、龍馬がいると確信した刺客たちは後からそのまま藤吉の背中を斬りつけた(翌日に死亡)。このとき「ぎゃあー」と絶叫を上げた藤吉に対し、龍馬は相撲でもとって遊んでいるのかと勘違いしたのか「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に図らずも自分たちの居場所を教えてしまう。

刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて風のように部屋に侵入(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。

刺客の一人は中岡に斬りかかり、一人は対座していた龍馬の前頭部を横に斬り付けた。慎太郎は刀を屏風の背後に置いてあったので、短刀の鞘をはらって、敵の懐に飛び込もうとするも、慎太郎は足を切り払われ、思うように応戦ができない。初太刀の痛手に、さらに数創を受けてついに倒れてしまった。

龍馬は初太刀を前額に浴びたものの、とっさに後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行)を取ろうと身をひねったが、右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。その後、刀を掴んで立ち上がろうとしたが、刺客の三の太刀が襲い、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払った。脳漿が吹き出す致命傷を受けてしまう。

龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだといい、その後ついに昏倒、刺客がさった直後に絶命した。

中岡慎太郎は刺客が去った後も驚異的な生命力で生きており、一時は焼飯を食べるほどとなり、事件の証言も行ったが、出血多量のために次第に衰弱。

田中顕助は瀕死の慎太郎の耳に口をよせて「長州藩の井上聞多を見て下さい。刺客により全身を切り裂かれたにもかかわらずまだ生存しています。先生、力を落としてはいけません」と必死の励ましをするものの、慎太郎は死期が近いのを知るかのように後の事を同志に頼みはじめた。


「早く倒幕の挙を実行しなければ、却って敵のために逆襲せられる。同志の奮起を望む」という悲痛な遺言を残して、事件から2日後の昼過ぎ、ついに絶命、昇天した。享年30。


公卿の岩倉具視は、中岡の絶命を聞くと「自分の片腕をもがれた」と声をあげて悲泣したと云われ、大久保一蔵(後の大久保利通)に宛てた手紙にも「この恨み必ず報ぜざるべからず」としたためており、その痛恨・哀惜の情がうかがえる。





中岡が幼少時に通った松林寺にある中岡慎太郎遺髪墓と家族の墓。
中岡が幼少時に通った松林寺にある中岡慎太郎遺髪墓と家族の墓。

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