中岡の死後、その亡骸は京都霊山に龍馬とともに埋葬され、墓標には中岡慎太郎、坂本龍馬ともに非常に親しい友であった木戸孝允が揮毫した。
行動を共にしていた田中光顕(後の伯爵)口述による中岡慎太郎評に下記がある。
「頭がきれ、弁舌さわやかであった。交渉事で障害になる人物があらわれると慎太郎が行けば、一時間以内に、意のままに説き伏せて帰った。また剣を持って龍馬よりはるかに上であったろう。この目でその働きぶりを見ての実感である」。
「中岡はすこぶる真面目な人で、即ち精神家であった。(中略)品行なども絶対に酒を遠ざけるといふ程に、融通の利かぬ男でなく、始終其の起居寝食を共にした自分としては、天機漏らす可らざる事も知って居るが、大体に於て謹厳な男で、其の性格がよく西郷に似て居た。中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷も亦中岡を賞賛して居た。坂本は之に反し豪傑肌の男で、性格は高杉と似た点があった」。
また、板垣退助は中岡をこう評している。
「ここに中岡慎太郎という人物がある。この人物は世間で名高くなっている坂本龍馬よりはある面で優れていたかと私は思っている。人それぞれの長短はあるが、坂本龍馬がもし生存していたら五代才助(後の友厚、薩摩藩士)か岩崎弥太郎(三菱創立者)のように事業家方面に発展する人だったと思うが、中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩ならべて参議になるだけの人格をそなえていた」。
福岡藩の早川養敬の中岡慎太郎評はこうだ。
「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。派手なことは坂本に属するが、中岡ほど苦心したものはないと思う」。
維新史の先駆的研究者として知られる平尾道雄氏は坂本龍馬と中岡慎太郎の二人を次のように評している。
「近代史をいろどる明治維新をかえりみるとき、坂本龍馬の『言論主義』は理想への歩みであり、中岡慎太郎の『用兵論』は現実をとらえたものであった。しかもこの二人はともに凶刃の下にたおれている。二人の運命は明治維新の二つの方向を反映したものとも見られるし、この理想と現実のひずみは、人類の歴史に課せられた宿命を象徴したようにさえ思われる」。
最後に龍馬自身の中岡慎太郎評を記しておく。
「龍馬もまた毎(つね)に人に語て曰く、吾れ中岡と事を謀る、往々にして論旨相協(あ)わざるを憂う。然(しか)れども之れ(中岡慎太郎のこと)と相謀らざば、また他に謀るべき者なしと」(伯爵佐々木高行家蔵『坂本龍馬博』 高知県立図書館蔵)。
(中岡慎太郎を偲んだ郷土の若者たちが、1935年(昭和10)に室戸岬に中岡慎太郎の銅像を建立。生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木地区には「中岡慎太郎館」と、生誕160年を記念し、脱藩時の中岡慎太郎像も建てられている)
|