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坂本龍馬について



坂本龍馬画像
上野彦馬撮影の坂本龍馬。
(最も有名な写真)


腰を掛ける坂本龍馬。
縁台に腰を掛ける龍馬。
江戸時代幕末動乱期に彗星のごとく現れ、一介の浪人ながら、薩長同盟、大政奉還など歴史の転換的事件に貢献した幕末期最大のヒーロー・坂本龍馬。「日本の夜明け」を疾走した幕末の風雲児・坂本龍馬という人物は、どんな生涯を送ったのか。このページでは略歴・プロフィールを紹介し、次ページ以降、龍馬の足跡を年代ごとに詳しくたどっていきます。

【坂本 龍馬(さかもと りょうま)】


天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)。幕末の志士であり、実業家でもある。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「社中」(一般には亀山社中)、「海援隊」の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力・大きく貢献し、志士として活動した。


坂本龍馬は、天保6年(1836年)、現在の高知県高知市上町に生まれた。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、郷士の習う小栗流和兵法を学ぶ。嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流の開祖千葉周作の弟・千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。

安政5年(1858年)、剣術修行を終えて帰国。文久元年(1861年)3月、武市瑞山を首領とした土佐勤王党結成に加盟。文久2年(1862年)3月には、沢村惣之丞とともに土佐藩を脱藩を実行した。その後、江戸へ入り小千葉道場に身を寄せ、その間、千葉重太郎(千葉定吉の息子)の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。その松平春嶽を介して生涯の師となる勝海舟に面会、弟子となる。

元治元年(1864年)、勝が幕府に提言・設立した神戸海軍操練所の前身である海軍塾では塾頭をつとめ、海軍操練所設立に尽力。しかしその後、池田屋事件での取り締まりにより殺害された志士達の中に塾生もいたことから、操練所は幕府から危険視され閉鎖に追い込まれ、勝も罷免された。

勝の庇護を失った龍馬であったが、勝の紹介で薩摩藩の西郷吉之助(後の西郷隆盛)を頼り、大阪の薩摩藩邸に保護された。慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への画策、運動を開始する。また、薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊となる)を組織し、物産・武器の貿易を行った。

慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛の会見が実現し、薩長同盟(薩長盟約)が締結された。龍馬は桂に求められて薩長同盟の盟約書に裏書も行っている。時流を動かす大藩同士の同盟に一介の浪人が保証を与えたものであって奇異な感じもするが、それだけ龍馬が信頼を得ていたということだろう。

その後、いわゆる寺田屋事件に遭い、寺田屋にて幕吏の襲撃を受け、左手の指を負傷するも奇跡的に脱出に成功。その後、その傷を癒すため、妻・おりょうと共に鹿児島を旅している(日本初の新婚旅行と言われている)。

慶応3年(1867年)、亀山社中を前身として、土佐藩の外郭組織としての海援隊を設立し、隊長となる。

同年、新国家体制の基本方針となった「船中八策」を策定し、その提案を後藤象二郎が土佐藩主の山内容堂に説いて、土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。

同年12月、京都の醤油商・近江屋(京都市中京区)にて何者かにより急襲され、中岡慎太郎と共に暗殺された(暗殺犯は京都見廻組という説が有力)。享年33。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社にあり、東京の靖国神社にも祀られている。

1962年から産経新聞に連載された司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以来、自由で奔放、その大胆な生き方から、多くの日本人の心を捉えて離さない日本史上有数のヒーローとして国民的な人気を誇っている。


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