坂本龍馬は、天保6年(1835年)に坂本八平(はちべい)と幸(こう)の次男として高知城下に誕生した。曽祖父の代に豪商の坂本家本家から分家した龍馬の生家は、その後、郷士(下級武士)となり豪商としての裕福な暮らしを保つことになる(坂本家は戦国時代からの明智光秀の一門と一説には言われているが定かではない)。
土佐藩は、豊臣時代の旧領主・長曽我部家の領地だったのが、徳川時代に、関ヶ原の戦いの功績により山内家の所領に変わった土地。そのため、旧主に仕えた者(主に郷士)に対し、頭巾、日笠、下駄の禁止など徹底的な弾圧政治が行われ、上士、下士の階級の差別が特に厳しかった。土佐藩の郷士は、徹底的に虐げられており、上士に対して、単なる身分差以上の憎しみや怒りを内に秘めていた。後に土佐藩の郷士たちが志士として積極的に活動していくのもそういった背景があった。
龍馬は5人兄弟の末っ子で、兄・権平と、姉・千鶴、栄、乙女という兄妹がいた。特にすぐ上の姉の乙女(おとめ)は、「坂本のお仁王様」と呼ばれ、三つ違いの弟であり、甘えん坊で泣き虫だったという幼少期の龍馬を積極的に鍛えた(龍馬は志士として活動するようになってからも乙女に頻繁に手紙を書き送っており、龍馬にとって乙女は終世特別な存在であった)。
しかし、龍馬はいつまでたっても鼻を垂れ流しており、寝小便も11歳ぐらいまで治らなかったといい、12歳になってやっと通い始めた楠山庄助の塾では、落第生として閉め出されてしまった。13歳の頃には母の幸が病死し、その後は継母の伊予や乙女が龍馬を育てていくこととなる。
14歳なった龍馬は、高知城下の日根野弁治道場に入門し、下士の習う小栗流和兵法を学び始める。幼少期の勉学とは違い、剣術はみるみる上達していった。また、その頃の龍馬らしいエピソードとしてこんなものがある。水練(水泳の練習)のある日、豪雨が降っていたので他の少年たちは水練を休んだが、龍馬は傘をさして出かけて行く。それ見た知人が不思議に思ってたずねると、「どうせ水に入れば濡れるのだから」と答えてさっさと行ってしまった。雨が降ったら水泳の稽古はやらないという常識。龍馬には幼少の頃から既成の常識を逸脱した風があった。
剣術を学ぶなかで、龍馬は少年から青年へと成長していった。19歳で「小栗流和兵法目録」授与され、剣術で頭角を現した龍馬は、さらなる武芸修行のため江戸へ出立することになる。15か月のお暇をもらって江戸に出発したのが、嘉永6年3月、竜馬19才の時だった。
嘉永6年という年は、米国のペリー率いる艦隊が浦賀沖に現れた年。長い鎖国の中で泰平の世を謳歌していた日本j国に対して、強引に開国を要求してきた黒船の出現は、日本中の人々を驚かせ恐れさせると同時に、江戸三百年の幕藩政治、封建体制を打ち破る大きな契機となった。
ただ、江戸に立つ前の龍馬は、思想的には何者でもなく、ただ一人前の剣士になる希望に胸をふくらませ、故郷・土佐をあとにしたのだった。
坂本龍馬像が建つ高知県・桂浜の海岸線。 |
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