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坂本龍馬の青年期



高知県の景勝地・桂浜。月の名所でもある。
高知県の景勝地・桂浜。月の名所でもある。

龍馬も加わった土佐勤皇党の首領・武市半平太の邸宅跡。
龍馬も加わった土佐勤皇党の首領・武市半平太の邸宅跡。
武市は龍馬と遠縁にあたるという。


高知城付近にある武市半平太(瑞山)が切腹して果てた場所に建つ石碑。
高知城付近にある武市半平太(瑞山)が切腹して果てた場所に建つ石碑。

高知城天守。
高知城天守。城郭と言うより、屋敷の趣が強い。


江戸に着いた19歳の龍馬が入門したのが、北辰一刀流剣術開祖・千葉周作の弟の千葉定吉が開いていた桶町千葉道場(通称:小千葉道場)だった。

龍馬が江戸に着いて間もなく、アメリカ合衆国のペリー率いる東インド艦隊が、浦賀沖にやってきた。いわゆる黒船来航は、幕府をはじめ、各藩の青年武士たちは国難がきたばかりに江戸を中心に国中が騒然となった。

龍馬も、藩命によって警備の任務につき国許の父・八平に「戦いも近いと思います。その時は、異国人の首でも打ち取って帰国しましょう」に当時の一般的な世論そのままに書き送っている。ペリーの艦隊が来年また来ることを予告し浦賀沖から引き揚げた後、12月には、当時洋学の第一人者であった佐久間象山塾に入門もしている。こうして15か月の修業期間を終えた龍馬は一度目の江戸遊学は終え土佐に帰国する。


高知で龍馬は、絵師・河田小龍に出会う。小龍は絵師だったが、漂流中をアメリカ船に救われ、アメリカ生活十年を経験して帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べを行い、その後、万次郎と親しく往き来している人物だった。外国の発展ぶりを万次郎を通じて知っていた小龍は、「現時点で外国と戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを話した。龍馬は小龍に対して、日本のこれからについての意見を求め、小龍は万次郎から聞いたアメリカの現状を踏まえ、開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を言った。龍馬は小龍の話に大いに感化されたという。

安政3年8月、土佐で再び江戸に行く機会を待っていた龍馬は、再び江戸の小千葉道場に剣術修業に出ることにする。

龍馬の剣術はいよいよ磨きがかかり、安政5年には「北辰一刀流長刀兵法目録」を得て、同年9月、土佐に再度帰国した。


龍馬が帰国の途につく頃、世は「安政の大獄」が始まりかけていた。アメリカの軍艦が浦賀に現れてからの五年間に、国内に沸き起こった攘夷論と開国論は対立したまま解決されずにいたが、彦根藩主井伊直弼が大老になると、井伊はまもなく日米通商条約に調印してしまった。それは逆に、沸騰していた攘夷論に油を注ぐ形となったが、井伊は、その挙に反対していた水戸斉昭、徳川慶勝、松平春嶽などの大名を謹慎、あるいは隠居謹慎の処分に付し、さらには梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎たちを次々に逮捕・拷問するという弾圧を行った。

安政6年(1859年)になると、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰といった英才たちがつぎつぎと死罪となる。翌年(1860年)、一連の「安政の大獄」に憤激した水戸藩士たちは井伊大老暗殺(いわゆる桜田門外の変)を決行。幕府の大老が一介の浪士たちに暗殺されたというその知らせは、幕府の権威が大きく揺らぐきっかけとなり、土佐藩の有志たち、そして全国の志士たちの心を大きく揺り動かすこととなった。


そんななかの文久元年(1861年)8月、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参じた同志は192名。龍馬は、この血盟文に9番目に署名をしている(のち、土佐藩は武市の活動を弾圧、武市は死罪となり非業の死を遂げている)。

 文久2年(1862年)、龍馬は武市の命を受けて、長州の萩を訪れた。ここで龍馬は、吉田松陰門下筆頭であった俊英・久坂玄瑞と出会う。久坂の「もはや、諸侯はたのむに足らないし、公卿も頼むことはできない。この上は、無位無冠の志ある者が団結して立ち上がる以外はない。失礼ながら、土佐藩や私の長州藩が滅亡したとしても、大義のためならどうということもない」旨の発言に龍馬は大きな衝撃を受けた。

帰国した龍馬は、その1カ月後、後に同志として行動を共にすることとなる沢村惣之丞と突如として土佐藩を脱藩する。国禁を犯す脱藩に至った心情を龍馬本人が書き記したものは何もない。しかし、久坂玄瑞から受けた大きな衝撃は、その遠因の一つになったことは想像に難くない。

龍馬の脱藩を知った武市瑞山は「龍馬は、到底、土佐の国ではあだたぬ奴だ」と云ったという(「あだたぬ」とは、包容しきれぬという意味の方言)。

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