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亀山社中設立、薩長同盟成立




坂の街・長崎の町並み
坂の街・長崎の町並み。

亀山社中跡
日本初の会社・亀山社中跡

亀山社中跡近くにある亀山社中資料館。
亀山社中跡近くにある亀山社中資料館。古写真や書状が展示されている。

史跡料亭「花月」。
史跡料亭「花月」。龍馬も通ったといい、内部には龍馬がつけた刀傷跡もある。

史跡料亭「花月」の門構え。現在でも高級料亭として営業している。
史跡料亭「花月」の門構え。現在でも高級料亭として営業している。

亀山社中付近にある「龍馬のぶーつ」
亀山社中付近にある「龍馬のぶーつ」長崎市街が一望できる。

薩摩藩家老・小松帯刀の墓(鹿児島県日置市)。
龍馬へ資金提供するなど深い親交のあった
薩摩藩家老・小松帯刀の墓(鹿児島県日置市)。
薩長同盟も京都の小松帯刀邸で締結された。


寺田屋事件の舞台となった京都・寺田屋。
寺田屋事件の舞台となった京都・寺田屋。

寺田屋内部。龍馬が泊まったとされる部屋(再建)。
寺田屋内部。龍馬が泊まったとされる部屋(再建)。
土佐藩を脱藩した龍馬は、まず久坂玄瑞のいる長州に行き、その後、九州各藩を見て歩いた。そこから一転して大阪、京都を経て江戸へと向かい、江戸では小千葉道場をたより身を寄せる。

その後、小千葉道場の千葉定吉の息子・千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。文久2年12月には、春嶽の紹介状を携え、千葉重太郎とともに勝海舟に面会する。勝海舟といえば、万延元年に咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、アメリカをその眼で直接見て来た人物。当時軍艦奉行並という幕府の職にある幕臣であった。

後年、勝が記した自記には、その時「我が邦(くに)海軍の、興起せざるべからざる所以(ゆえん)」を龍馬に伝えたとしている。最初、龍馬は場合によっては勝海舟を斬るつもりであったが、勝の面談する中で自身の考えを恥じ、その場で門下生になったという。開明派の幕閣僚の勝との出会いによって、龍馬は単純な攘夷という理念から脱却する。

さらに翌年4月、龍馬は同じく開明派の幕閣の大久保一翁と対面する。大久保の回想によると、同志たちを伴い来訪した龍馬は、異人館を襲撃すると説いたため、大久保はこれを無益と諭したという。だがこれは、龍馬が同志たちに攘夷の無意味さを理解させるために、わざと仕組んだ策だったと回想している。


龍馬が勝の弟子となって以降、龍馬は次々に知人友人を説きつけて、海舟の門下に引き入れていった(甥の高松太郎をはじめ、近藤長次郎、千屋寅之助、望月亀弥太、新宮馬之助、安岡金馬、沢村惣之丞など)。文久3年(1863年)4月、勝が幕府の海軍教習所となる「海軍操練所」の設立の認可を受けると、設立所準備のために奔走している。

その過程で横井小楠(しょうなん)とも出会っている。小楠は私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した人物で、松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にもかかわった肥後出身の知識人。早くから開国論を唱え、私案の「国是七条」によって人材の抜擢登用、新政体の構想を論じた横井の思想は龍馬を強く刺激した(ちなみに「国是七条」は、龍馬が後に提案した「船中八策」の原型とも言える)。

後に龍馬は国許の兄・権平らに宛てた手紙に「天下の人物」として9名の人名を綴っているが、後に龍馬と深く関係する西郷隆盛や小松帯刀、桂小五郎とともに、勝海舟、大久保一翁、横井小楠らを掲げている。龍馬に与えた影響の大きさを物語っていると言える。

(その間、勝・松平春嶽の運動で土佐藩から脱藩の罪を許される。また勝の護衛として土佐勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけたりしている。しかし、「八月十八日の政変」で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となると藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩するすることとなった)


元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が正式に開設された。しかし「池田屋事件」、そしてその報復である「禁門の変」においても、多数の海軍操練所塾生が加わっていたため、海軍操練所は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬は、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護された。このことにより、その後の龍馬にとって最大の恩人となる人物・西郷隆盛と小松帯刀との出会うこととなる。

ちなみに、薩摩藩の中軸を担う西郷と接触した龍馬は、初対面の西郷の印象を「成程、西郷という奴は、わからぬ奴だ。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」(氷川清話)と勝に伝えたという。


この頃、「8月18日の政変」で京都を追われ、さらに翌年の禁門の変により危機的な状況を迎えていた長州を、倒幕のために敵対した薩摩と和解させようとする動きが、中岡慎太郎により行われていた。

慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元にその中岡慎太郎らが訪問。幕府による長州征伐の動きが強まる中、征長軍参謀に任命されながらも長州に同情的な西郷の姿勢に活路を見出し、龍馬も両藩の和解活動に挺身するようになる。ここに倒幕のための歴史的転換・薩長同盟へ向けた和解工作の根回しが、中岡慎太郎、坂本龍馬の協力により、より深く展開されることとなった。

その過程で龍馬は、薩摩藩の援助のもと海事結社を土佐脱藩の仲間と共に長崎で立ち上げた。いわゆる亀山社中(正式には「社中」)である。亀山社中は武器輸送にも奏功し、長州へ薩摩名義での銃の搬送を行うなど薩長和解に向けて大きな役割を果たした。

その後も龍馬は、文字通り諸国を東奔西走し、薩長同盟に向けた活動を続けた。旧敵ともいえる薩摩との和解へ向け、長州藩の代表・桂小五郎(後の木戸孝允)を前に疑心暗鬼に陥っていた桂を必死でサポートし続けた。


そして慶応2年(1866年)1月、龍馬・中岡らの尽力により、京の薩摩屋敷にて悲願であった長州の桂小五郎、薩摩の西郷隆盛、小松帯刀の会談が実現。しかし、両藩の面子から双方が薩長同盟の話を切り出さず、一時は破談になりかけてしまう。そこで同席した龍馬は「窮地にある長州から同盟を申し出ることはできないはずだ。今は藩の面子を気にしている時ではない」旨を西郷に説き、薩摩が申し出る形で決着。最後のひと押しを龍馬が行ったことで、悲願であった薩長同盟(薩長盟約)は合意に至った。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、龍馬がいかに信頼を得ていたかがわかる。


薩長同盟締結が成った後、龍馬が常宿としていた京都・伏見の寺田屋を伏見奉行配下の捕り方が龍馬を捕縛、もしくは殺害しようとしたいわゆる寺田屋事件が起こる。

同宿の養女で、龍馬の妻となっていたおりょうが外の様子を知り、風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり龍馬に危機を知らせ、龍馬は主に銃で反撃。龍馬はこのときに左手の親指を負傷してしまう。護衛についていた長府藩士で槍の名手・三吉慎蔵の奮迅の働きにより、脱出に成功しなんとかこの危機を回避した(龍馬は、共に死線を越えた三吉を終世信頼し、三吉も龍馬亡き後、おりょうの身柄を一時預かるなど多くの配慮をしている)。

その後、龍馬は薩摩の西郷隆盛の斡旋により、しばらくの間、傷の療養も兼ねて薩摩へ向かい、薩摩領内に潜伏することになった。




現在でも旅館として営業している伏見・寺田屋。
現在でも旅館として営業している伏見・寺田屋。
雰囲気抜群!


寺田屋にある当時を彷彿とさせる風呂。
寺田屋にある当時を彷彿とさせる風呂。
おりょうの風呂と掲示してあるが、再建であり、
おりょうが実際に使用したものではない。


全国の龍馬ファンが訪れる寺田屋。
全国の龍馬ファンが訪れる寺田屋。
以前までは当時のままの建物とされていたが、
最近再建されたものだと結論付けられた。



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