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海援隊発足、船中八策(大政奉還)




長崎・風頭公園に建つ龍馬像と海援隊隊旗。
長崎・風頭公園に建つ龍馬像と海援隊隊旗。




龍馬の「船中八策」を向け大政奉還実現に向け尽力した後藤象二郎


亀山社中に続く道・長崎の「龍馬通り」。海援隊の隊旗がモチーフになっている。
亀山社中に続く道・長崎の「龍馬通り」。海援隊の隊旗がモチーフになっている。

龍馬ら志士達が頻繁に参詣した若宮稲荷神社。亀山社中跡近辺にある。
龍馬ら志士達が頻繁に参詣した若宮稲荷神社。亀山社中跡近辺にある。

若宮稲荷神社と龍馬との関わり説明文(画像をクリックすると大きくなります)。

長崎・グラバー園。
長崎・旧グラバー邸。龍馬は武器商人・グラバーと密接にコンタクトをとった。

旧グラバー邸内部。
旧グラバー邸内部。
グラバー園にあるトーマス・グラバー像。
日本の近代化に大きな役割果たしたトーマス・グラバー。
グラバー園内にある胸像。


グラバー邸内にある志士たちを隠したと言われる隠し部屋。
グラバー邸内にある志士たちを隠したと言われる隠し部屋。

風頭公園から望む長崎の街。
風頭公園から望む長崎の街。

日本最初の職業写真家で、龍馬の写真の撮影者として有名な上野彦馬の墓。
日本最初の職業写真家で、龍馬の写真の撮影者として有名な上野彦馬の墓。

大政奉還の舞台となった京都・二条城。
龍馬が構想した大政奉還は、1867年11月に京都・二条城で宣言された。

寺田屋事件の後、龍馬は薩摩の西郷隆盛、小松帯刀の斡旋により、しばらくの間、妻のおりょうを連れ傷の療養も兼ねて薩摩へ向かうことにした。

鹿児島ではおりょうとともに温泉での湯治をし、霊峰・高千穂へ登山をするなど鹿児島の地で一時の休息の日々を過ごした。日当山温泉や塩浸温泉(現鹿児島県牧園町)で傷を癒し、その後に二人で山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」を見るため、高千穂峰に登山。龍馬はその高千穂峰登山の様子を絵入りの書簡にしたためて姉の乙女に送っている。

その書簡には、「天の逆鉾」を引っこ抜き、天の逆鉾の彫り込みが天狗に似ていると言って二人で笑ったり、霧島神宮にお参りした旨が書かれている。鹿児島での88日間は旅は、龍馬にとって休息の日々となった(ちなみに、この旅行が日本最初の新婚旅行と言われている)


傷の癒えた龍馬は精力的な活動を再開する。

慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐に際し、亀山社中が薩摩藩名義で購入したユニオン号で下関に入る。銃を贈られるなど、かねてより親交のあった高杉晋作が海軍総督として指揮をとっている長州藩海軍を支援(寺田屋事件の際、龍馬が発砲した銃は高杉晋作から贈られたものだといわれている)。

慶応3年(1867年)1月、龍馬は長崎で土佐藩参政の後藤象二郎と対面。後藤は、龍馬の遠縁にあたる武市半平太が結成し、龍馬自身も参加した土佐勤皇党を弾圧した張本人。しかし、龍馬と後藤は恩讐を超えて意気投合。土佐藩との関係を修復して、長崎の亀山社中を発展させる形で土佐藩の外郭組織としての「海援隊」設立、隊長に就任した。

4月、紀州藩船の「明光丸」が、海援隊が伊予大洲藩から借用した「いろは丸」に衝突した「いろは丸沈没事件」が起こる。隊長の龍馬は、その後の紀州藩との賠償交渉にあたっては、隊長の坂本龍馬をはじめ、幹部が総掛かりで対応し、双方激しい議論が交わされた。途中からどうにも進展しない状況に土佐藩の重役・後藤象二郎が加わり、事は土佐藩対紀州藩の事件に発展。結局は薩摩藩・五代才助の周旋もあり、遂に御三家紀州藩から損害賠償金を支払わせる合意を得た。この事件で、龍馬は後藤にさらにいっそうの信頼を置くこととなり、10月の大政奉還へと連なっていく。

いろは丸事件が決着すると、龍馬は大政奉還の実現という新たな行動に着手。土佐藩船の夕顔丸で長崎を出航、東上する船中で、龍馬は前土佐藩主の山内容堂に対して大政奉還論を進言するため、大政奉還と、その後の国政の試案を列記した「船中八策」を書き上げた。この「船中八策」は横井小楠の私案である「国是七条」が大きなモチーフとなったと言われている。

後藤は龍馬の「船中八策」に賛同し、本案を京都で土佐藩主に提出。そして、大政奉還は土佐藩の藩論とすることに成功した。その後も大政奉還の実現に向けて終始尽力した後藤象二郎を、龍馬は直前まで激励し続けたという。

その後、龍馬は中岡慎太郎とともに西郷隆盛、後藤象次郎らによる薩土盟約の締結にも臨席し、両藩の結束をより強固なものにした。

そして、龍馬の「船中八策」が端緒となり、慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた、いわゆる「大政奉還」がついに実現した。



鹿児島市与次郎にある坂本龍馬新婚の旅碑。
鹿児島市与次郎にある坂本龍馬新婚の旅碑。

龍馬とおりょうが新婚旅行で訪れた薩摩。画像は桜島山。
龍馬とおりょうが新婚旅行で訪れた薩摩。画像は桜島山。

龍馬とおりょうが立ち寄った鹿児島・塩浸(しおひたし)温泉。
龍馬とおりょうが立ち寄った鹿児島・塩浸(しおひたし)温泉。


龍馬とおりょうが入ったとされる温泉(鹿児島・塩浸温泉)
龍馬とおりょうが入ったとされる浴槽(鹿児島・塩浸温泉)

塩浸温泉に建つ龍馬とおりょうの像。
塩浸温泉に建つ龍馬とおりょうの像。

龍馬夫妻も立ち寄り感嘆したという犬飼の滝(鹿児島県姶良郡)。
龍馬夫妻も立ち寄り感嘆したという犬飼の滝(鹿児島県姶良郡)。
新鹿児島100景の第1位にも選ばれている瀑布。


天孫降臨の地にある霧島神宮。創建は6世紀。龍馬とおりょうも参詣している。
天孫降臨の地にある霧島神宮。創建は6世紀。龍馬とおりょうも参詣している。
天照大神の孫であるニニギノミコト(瓊々杵尊)を祀る。


龍馬が姉・乙女への手紙にも書いた高千穂峰登山。奥が高千穂峰。
龍馬が姉・乙女への手紙にも書いた高千穂峰登山。奥が高千穂峰(霧島市)。

天孫降臨の地である高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」
天孫降臨の地である高千穂峰の山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」

天の逆鉾。龍馬とおりょうは手紙で逆鉾を引っこ抜いたことを綴っている。
天の逆鉾。龍馬とおりょうは手紙で逆鉾を引っこ抜いたことを綴っている。

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