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坂本龍馬の最期(近江屋)





京都・霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像。
刺客の凶刀に斃れた坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)。霊山護国神社。


坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓。
京都・霊山護国神社内に眠る坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓。
全国からファンが訪れている。



霊山には龍馬と中岡だけでなく多数の志士達の墓がある。
霊山には龍馬と中岡だけでなく多数の志士達の墓がある。
徳川慶喜が京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた、いわゆる「大政奉還」が実現したのが慶応3年(1867年)10月のこと。

そして、運命の近江屋事件はその翌月の寒い冬の日に起こった。

その日、龍馬は風邪気味で母屋の二階奥の八畳間で北側の床の間を背にして座っており、火鉢をはさみ南面して中岡と対座し、三条制札事件で町奉行所に囚われていた土佐藩士の宮川助五郎の身柄について話をしていたという。部屋を隔てた表の間では、龍馬の従僕で元力士の山田藤吉が楊枝をけずっていた。

夜9時頃になり、客(刺客)が近江屋を訪れ「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と告げた。十津川郷士には龍馬の知人も多いので藤吉は不審に思うことなく、見知った客か龍馬に確認しようと二階へ上ろうとした。踵を返した藤吉を見て、龍馬がいると確信した刺客たちは後からそのまま藤吉の背中を斬りつけた(翌日に死亡)。このとき「ぎゃあー」と絶叫を上げた藤吉に対し、龍馬は相撲でもとって遊んでいるのかと勘違いしたのか「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に図らずも自分たちの居場所を教えてしまう。

刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて風のように部屋に侵入(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。

刺客の一人は龍馬の前頭部を横に斬りかかり、一人は対座していた中岡を付けた。龍馬は初太刀を前額に浴び、とっさに後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行)を取ろうと身をひねったが、右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。その後、刀を掴んで立ち上がろうとしたが、刺客の三の太刀が襲い、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払った。脳漿が吹き出す致命傷を受けてしまう。

龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだといい、その後ついに昏倒した。

刺客が去った後、龍馬と中岡は意識を取り戻し、龍馬は刀を抜いて行燈の光を無念げに眺めながら、慎太郎に「手はきくか」とたずね、隣の部屋までにじり出て階段の降り口で階下にいるはずの家人を呼んだが「もう、いかん」と言い残し仰向けに倒れてついに絶命してしまった。 (中岡慎太郎は刺客が去った後も生きていたが、事件から2日後に絶命)この日は、奇しくも龍馬33回目の誕生日であった。

暗殺犯については、新撰組犯行説、薩摩藩陰謀説など様々な説があるが、現在のところ、京都見廻組という説が有力である。


龍馬と中岡の墓の近くから望む京都の街並み。
龍馬と中岡の墓の近くから望む京都の街並み。

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