坂本龍馬の死後、永く龍馬の活躍が現在のように広く知られることはなく、忘れ去られることになる。
明治16年(1883年)、坂崎紫瀾が龍馬の活躍を書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となり龍馬がクローズアップされた。次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争の時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという逸話である。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となった。
そして、何と言っても現在の坂本龍馬人気の火付け役となったのが「産経新聞」夕刊に1962年から1966年まで連載され、1963年から1966年にかけて文藝春秋から刊行された司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」である。現在の坂本龍馬ファンが持つ龍馬のイメージはこの作品によって作られたと言っても過言ではなく、これまでに大河ドラマの他、民放各局でも幾度もテレビドラマ化されている。
では、龍馬と同じ時代を生きた人たちは坂本龍馬という人物をどのように見ていたのか。
海援隊出身で、後に「カミソリ大臣」として辣腕をふるった外務大臣・陸奥宗光は坂本龍馬についての評で最大級の賛辞を贈っている。
「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき」。また。このようにも述べている。「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のやうに思はれき」(千頭清臣
『坂本龍馬』)
同じ土佐藩の出身で、後に自由民権運動で活躍した板垣退助はこう語っている。
「豪放不埒、是れ龍馬の特質なり。到底吏人たるべからず。龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩の五代才助、土の岩崎弥太郎たるべけん」(千頭清臣
『坂本龍馬』)
薩摩藩・西郷隆盛の龍馬評。 「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だ曽て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」(千頭清臣 『坂本龍馬』)
寺田屋事件で龍馬を救った長府藩士・三吉慎蔵の龍馬評。
「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも万事温和に事を処する人なり。但し胆力は極めて大なり」(『毛利家文庫』
三吉慎蔵談話ノ要)
龍馬の師・勝海舟の龍馬評。
「坂本龍馬が曽ておれに『先生は屡々、西郷の人物を称せられるから、拙者も行て会って来るにより、添書をくれ』といったから早速書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰って来て云うには『成程、西郷という奴は、わからぬ奴だ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で利口なら大きな利口だろう』といったが坂本も中々鑑識のある奴だよ」(勝海舟
『氷川清話』)
開明派の幕閣で、のちに子爵となった大久保一翁の龍馬評。
「坂本龍馬は土佐随一の英雄、謂はば大西郷の抜目なき男なり」(千頭清臣 『坂本龍馬』)
幕府軍が敗れることを知りながら、最後まで忠誠を尽くして戦った幕臣である永井尚志の龍馬評。
「後藤よりも一層高大にして、説く所も面白し」
龍馬の妻・おりょうの龍馬評。
「龍馬はそれはそれは妙な男でして、丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白に誤りさへすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと丁寧に教へて呉れました」
龍馬の妻・おりょうの回想。
「龍馬、中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄じく、後藤を捕へて、おい後藤貴様が苦情を云はずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こむな事にはならないのだ…、全躰土佐の奴等は薄情でいかんと、怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし、いや苦情を云った訳ではない、実はそこにその色々…、何が色々だ、面白くも無い、如何だ貴様も片腕を無くして落胆したろう、土佐薩摩を尋ねても外にあの位の人物は無いわ…、ええ惜しい事をしたと流石の西郷も口惜泣きに泣いたさうです」(安岡重雄
『反魂香』)
(大正の終わり高知県の青年たちの提唱で昭和3年に坂本龍馬の銅像が桂浜に建立され、以後、高知、長崎、鹿児島など各地に龍馬の像は建てられている。現在、桂浜には高知県立坂本龍馬記念館が建てられおり、龍馬に関する様々な資料が展示されている)
新婚旅行で湯治に立ち寄った塩浸温泉(鹿児島・牧園町)に建つ龍馬とおりょうの像。
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